長い前置き
1994(平成6)年6月9日付けの山陽日日新聞の一面に次のような文章が掲載されている。これは、吾輩が山陽日日新聞社からイベント趣意を文章にしてくれないかと依頼され、吾輩は名前を伏せる条件で、尾道への思いを込めて書き綴った。が、若気のいたりで大言壮語の文字を羅列してしまい、書き手の名前を伏せて掲載されたことは、結果として幸運だった。
それは、イベント『尾道まるごとギャラリー展』の企画趣意でタイトルを<最先端のアート空間>とした拙文である。しかしながら、吾輩の夢を託したこのイベントは、当時の尾道の人々には理解されず、1994年7月の唯一1回だけの『尾道まるごとギャラリー展』となってしまった。
その拙文をご紹介する前に、ひとり勝手な言い訳かもしれぬが、さらに申し上げたいことがある。
もともと不器用で、語彙力や力量もないのに「寄らば大樹の陰」を嫌う吾輩には、悪い癖がある。正しいことだと思ったら、損得勘定も遠慮もなくすぐ口に出し、尾道では生意気だと思われる。歴史的景観を守る会の活動をして以来、浅学非才な吾輩でも「出る杭は打たれ」るで、おまけに風通しが悪く、吾輩の名前を表に出すだけで、うまく事が運ばない、当時はそんな風潮が権力者の周りにあると吾輩は認識していた。
歳を重ねた今考えてみると、それは被害妄想のたわごとではないか、それほど吾輩が注目される人物だったとは考えられない。たとえその万分の一が真実だと仮定しても、それを真に受ける吾輩自身が羊質虎皮(ようしつこひ)のたぐいだと、思うことにして記憶の奥の抽斗に収めている。それにしても人生一貫して自らの非力を恥じるばかりだ。
このイベントでは、吾輩は同級生たちに甘え、出来うる限り黒子に徹することにして、マスメディアには一切出なかった。
なぜ『尾道まるごとギャラリー化』か
その企画趣意とは、以下のとおりである。
それによると、「過去の歴史文化を今も温存する都市の多くは、やがて到来する『感性の時代』に照準を合わせ、今まさに都市の復権をめざし、新しい都市づくりを始めようとしている。その動きは、戦略的な都市づくりを手がける先進的な都市群に共通するものと言える。
19世紀から20世紀にかけ、芸術文化の中心であったパリが、歴史的建造物を生かしながらもアバンギャルドな手法を吸収し、『文化が経済を誘発させる』という戦略のもとに21世紀への生き残り戦術として大胆なパリ大改造を着した。そのパリが、今また新たな試みを行なっている。二百年前に形成されたパセージュの復活である。それは石造りの建造物の合間にある路地空間であり、かつて生活文化のサロン的な役割を果たしてきた商店街の復活を意味する。
千年もの長きにわたり戦禍を免れた尾道は、豊かな歴史文化とともに歴史遺産としての路地を今に伝えている。この路地は、旧市街地の中で東西1.5kmに及ぶ商店街の毛細血管として発達してきた。そして商店街の地盤沈下によって、この路地空間は陽のあたらぬ生活空間として、辛うじてその役割を果たしているだけである。
私たちは、この毛細血管としての路地空間と広義の路地空間でもある商店が連なるアーケード街に注目している。路地空間とは、人間尺度でつくられた最もホットな空間であり、その日常生活そのものまでも、アートとして存在するという可能性を秘めた表現空間である。」
実践的試みと将来の展望
「私たちは、商店街の盛衰は街の活性化と大きく連動するという認識に立ち、今回『尾道まるごとギャラリー展』を尾道再生のまちづくりの手法の一つとして提案し、実験的に実施するものである。
それというのも、このイベントが極めてインフォーマルな立場で、企画、立案されたものであり、組織的にも資金的にも脆弱であるからだ。そのため、ご協力いただくアーティストたちは、いわば知人友人の類でボランティアを基本としている。
尾道まるごとギャラリー化は、狭く閉ざされた美術館という枠を取り払い、恵まれた自然景観と町並み、寺院そして日常の営みをも含めたアバンギャルドな表現空間を生み出す。まさに尾道の中心市街地を最先端のアート空間として変貌させる契機となると思っている。
私たちは、この『尾道まるごとギャラリー展』がビエンナーレとして尾道に定着することを夢見ている。そして尾道商店街連合会並びに尾道在住のアーティストあるいは芸術を愛する多くの方々が、このイベントに参加し、中核となりお育ていただければ、至上の喜びである。」
曖昧な記憶
『尾道まるごとギャラリー展』については、吾輩はほとんど資料を残していなかった。頼りになるのは、明治時代に創刊し、2018年11月1日に突然廃刊した尾道の山陽日日新聞である。そのすべてを継承している尾道新聞に依頼し、関連記事を探していただいた。
吾輩の記憶によると、地元同級生たちと、関東在住の末木芳(画家)と戸田良枝(染色家)たちが奔走し、関東在住のアーティストたちのボランティア活動への参加も促してくれた。その結果、おぼろげながら6〜7人が交通費だけで尾道行きを快諾してくれたように記憶していた、が全然違っていた。27年近く昔のことは、吾輩の頭がまだ若いせいか、まったく曖昧な記憶であった。
頭(こうべ)を垂れる
当時の山陽日日新聞の記事を読むと、6〜7人というのはシャッターにペインティグアートをおこなった人たちで、絵のまち館、喫茶プランタン、ビサン ゼセッションの3箇所を拠点とし、伊予銀行、広島総合銀行(現もみじ銀行)、尾道郵便局、明治生命、藤井タンス店、みさか、かつはら、向陽社、啓文社など商店街のショーウインドウに作品が展示される『尾道ギャラリー展』に作品を出品したアーティストたちは総勢22人であった。
27年も経つと記憶が曖昧となるものだ。この場をお借りして「失礼千万、ご容赦いただきたい」と、こうべを垂れて吾輩はお詫びする次第だ。
記事によると、「最大の目玉はシャッターや塀になどキャンバスに見立て創作、すでに発信地のビサン ゼセッションをはじめ、尾道共和物産(海山荘前)、吉原花展、玄場服地店(センター街)、大塚商店(米場町)、島居薬品(中央街)の6店のシャッターに、山陽日日新聞社も参加する。」
「出展者はつぎのみなさん。林道夫(書道家・尾道)、末木芳(画家・東京)、森本まさみ(画家・岡山)、山田むつこ(七宝作家・横浜)、戸田良枝(染色家・東京)、高田三徳(画家・尾道)、野明茂男(版画家・東京)、大谷早苗(画家・東京)、小野寺健(画家・東京)、鷹啄栄峰(画家・東京)、秦栄(彫刻家・東京)、金子稔(版画家・東京)、山崎富三(画家・東京)、峰八洲子(デザイナー・東京)、かわいともこ(画家・広島)、福田陽子(画家・東京)、阿部浩(版画家・東京)、斉藤ぶんぜん(版画家・東京)、吉田久二(版画家・東京)、磯部廣二(彫刻家・東京)、醍醐イサム(現代美術家・東京)、佐藤ケンジ(版画家・東京)」であった。その後日の記事には、ペインティングアートの田端優子(画家・東京)と日下賢二(木版画家・東京)の2名、そして吾輩が主宰の「クラシック音楽を楽しむ会」で知古となっていたウィーン在住の音楽家・杉本長史(オーストリア文化産業促進交流協会理事)に依頼した文化講演も紙面を賑わしていた。以上、総勢25名のボランティア・アーティストたちである。
残念至極のことだが、シャーターに描かれたペインティングアートは、今はまったく失われていえる。唯一残っているのは、保存状態は極めて悪いが、ビサン ゼセッションのブロック塀に描かれた3点の絵だけだ。
(2021年4月18日)